logo

ホーム

pic

取扱商品

pic

製作の歴史

pic

製作過程

pic

工房紹介

pic

お問い合わせ

人力車製作の開始

人力車の普及

pic

明治三年三月、人力車の製作が許可されて以来、その便利さが爆発的な需要となり、世間の目を驚かせました。翌年、明治四年五月の「新聞雑誌」の第一号には「人力車の数は日に日に増して二万五千に至る」とあり、同年の十二月の第二号には「人力車の数は四万を超えた」とあった。製作が許可されてわずか一、二年の間に人力車は人々の生活に力強く根付き、大盛況となった。人力車の製作、生産はというと製作が許可された明治三年ではまだもの珍しく、数量的にもさほど多くはありませんでしたが、明治四年に入ってから急激に増加しはじめました

日本での人力車生産

この頃になってから、人力車の生産者も増え。生産体制も軌道に乗り始めたものと推測されます。 全国的にみても明治七年の人力車の生産は、すでに四十一都道府県で行われており、全国生産高は二万台を超えています。その中でも、東京・大阪の生産高が過半数を占めていますが、残りの半数は地方の生産であり、これもまた相当な成長ぶりを示しています。

人力車の改良

pic

製作が始まった明治三年からしばらくの間、人力車の形には腰掛け型、坐型、チリトリ型、ダルマ型などがあり、各種各様でした。チリトリ型、ダルマ型というのは椅子に腰かける形ではなく、車体の上に四本の柱を立て屋根を付けた箱型の人力車のことです。 明治三、四年になると西洋馬車をヒントに舟型に改良され、これが後年の祖先にもなったと伝えられています。明治五年以降は、人力車の形にさほど大きな変化は見られないので、その後は部分的な改良が主となっていったのだと考えられます。

製作許可が出た当時は、車大工だけで製作していたが、このように急激に需要が増えたことにより車大工のみでは生産が追いつかなくなり、一般の大工も参加して製作されていたと考えられます。 人力車が改良され精巧になっていくにつれて、部分品の製作も専門化していきました。そして資本力をもった製作業者が、職人を雇い入れて、自分の工場内で基幹部分を分業によって生産し、さらに部分本製作業者を組織して下請け化し、その部品を自分の工場で組み立てる、という方法によって人力車を生産していくようになりました。

人力車の部品の歴史については記録がありません。当時、明治三、四年に描かれた錦絵などを頼りに、製作の背景を見ていきましょう。

車輪

輪板(わいた)と呼ばれる車の外周の曲がった板車輪には、幅の広い物から細いものもあります。細い物の外周が濃い色になっているところを見ると、おそらく輪金(わがね)を巻いていたと思われます。車輪の中心は「轂(こしき)」という円木です。通常は銅といいます。「輻(や)」の集まる中心となり、中には軸を受けます。輻は輪と轂を支える木を指します。外周の曲木は「輪板」や輪形、羽板などと称しています。銅は欅(けやき)でつくりますが輪や輪板は樫(かし)でつくられていたようです。そして輪の外側を輪金でまいて車輪を作ってしました。『明治十年内国勤業博覧会出展品説』にも「車輪の中で外輪やスポーク(輻)や車の中心部(轂)は樫材で作り、車輪外周には鉄板を巻き、車の中心部の内部には鉄管をはめ込み…」とその製法を述べています。そしてこの木製の車輪の鉄輪をはめ込んだものが、明治四十年を境として、しだいにゴム輪に交代していくのです。

梶棒

錦絵に描かれた人力車をみると、梶棒に二つの型がありました。一つはまっすぐな梶棒で、他は握る部分が急に上の方に曲がった梶棒です。この後者の方は。地方で生産される人力車の中に、明治二十年ころまで残っていました。この梶棒の先端に、象の鼻のように曲がった金具をつけて、梶棒を地面につけるときの支えとしました。形状から「象鼻」と呼ばれていますが、これは秋葉大助が明治十三年ころに考案したものだと伝えられています。

泥除

明治三年の錦絵の中に、少数ではありますが泥除がついた人力車が見られます。泥除は明治七、八年に、前述にもある大助が考案したものだといわれますが、当初からその祖型があり、それを大助が工夫改良したものと思われます。泥除は古いものは平たい木製でつくられています。また、丸味のある泥除は「たいこばり」よ呼ばれます。

バネ

明治四年版の錦絵に初めてバネのついた人力車が描かれました。このバネを人力車につけることも、秋葉大助の考案だといいます。まだバネがついていなかったころは、抱木(かかえぎ)を用いて、衝撃をやわらげたといいます。初期の人力車のバネは、松葉を二つ向い合せたようなひし形でした。そしてしだいに丸味をおびていきます。大正時代から家鴨バネ(あひるばね)と呼ばれるものが現れました。非常に弾性があるので乗り心地は上々でしたが、道が悪いと折れやすいという欠点がありました。

幌(母衣)

芝拾五番組(浜松町金杉付近)の中年寄・内田勘左衛門が創意工夫したと伝えられています。この当時は桐油紙の幌であったようです。イサベラ・バードが、明治十一年に横浜に上陸した時の記述に、「クルマすなわち人力車は、乳母車式の軽い車体に調節できる油紙の幌をつけ…」とあり、まだ油紙の幌が大全盛だったと思われます。ゴム引きの帆は明治十三、十四年ごろからあらわれるようになったそうです。

(以上、書籍「人力車」著:斎藤俊彦 より抜粋)